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命拾い

2017.6.1

漂うブロガーです。

4月と5月、危うく死ぬところでした。

以下の話は、私が個人的に経験したことと、感じたことです。



もう10年以上昔になりますが、車に排ガスを引き込み、自殺しようとしてた人を助けた事がありました。



見つけた瞬間は

「何かの冗談か?」

と思うくらい、ドラマの場面そのまま。



運良くロックされていなかったドアを開け、本人を引きずり出すと、かなり酔ってたその方は

「死なせてくれ!」

と、相当なバカ力で大暴れ。



どう声をかけても通じやしません。



近所の方に助けを求め、何とか警察に保護してもらい事なきを得ましたが

「助けられて良かった」

などとゆう感じは全く無くて、嫌な胃の痛さだけが残りました。



今度はその自分が、自殺寸前まで思い詰めたりするんですから、人生、分からないものですね。



結論から言えば、私は死にませんでした。



思いとどまった訳ではなく、タイミングがずれたんですね。



ほんの少し。



本気で死ぬつもりでした。



気持ちの上で一線を越えてしまうと、意外と冷静。死に対する恐怖心はなく、むしろ

「正しい行いをするんだ」

くらいに思ってましたから、こんなの普通は止めようが無いと思います。



家族は誰も気が付いていませんでしたし。



死に方としては、糖尿病の治療薬60錠イッキ飲み。低血糖の昏睡状態なら苦しまないと思ったんですね。



私はずっと禁煙してたんですが、最後くらいは一本いきたいし、酒も飲んでおきたい。

この、最後の酒とタバコを買いに出掛けようとした時

(もちろん最後の酒タバコなどとは言うはずありません)

家人から

「洗濯物取り込むから、出掛けるの待って」

と言われたんです。

で、待ってたら死ぬのが面倒になってしまいました。



これが死ななかった理由。



それから約1ヶ月。



治療やら回りの支えもあり、今すぐ死ぬのは、とりあえず止めてます。



一つ思ったのは、気分的には準備OKでも、実際に強行できるタイミングは限られてるとゆうことです。



「かまってアピール」で死にたいと叫ぶのは別として、本気で死ぬつもりの人を止めるのは至難の技だと思います。



人にもよりますが、死ぬ理由って、

「自分が生きてると皆が迷惑する」

とか、

「辛すぎて耐えられない」

とかじゃないでしょうか。

前者の場合、人様に迷惑かけたくなくて死ぬんですから、事前に

「今から死ぬよ」

と言いう訳ありません。



私はこのパターンでした。



後者の場合、辛い理由は分かりませんが、誰にも分かってもらえない

「究極の孤独」

を感じてしまったのかもしれません。



何度も言いますが、ガチで死のうとしてる人を救うのは、容易ではないんです。

そもそも見つけてもらえないんですよ、本気の人は。



気付いたら居なくなってる。



もちろん、注意して見てれば前兆に気付くこともありますが

「何が前兆なのか?」

は、多少は学ばないと分かるようにはならないです。



当てずっぽうでは無理。



ほんの少しでいいんです。



100苦しんでる内の、1か2でも分かって(認めて)あげられれば、その人は、その場では死にません。

で、さっきも書いたように、強行できるタイミングは限られてますから、一回外してあげれば、一回命拾いします。



そのタイミングを外して命拾いできるかどうかは

「運」

でしょうか。



勘違いしないで欲しいのは、「運」は「奇跡」とは違うとゆうことです。



勝手な解釈ですが、運とは「はこぶ」と読みますよね。



何を運ぶか?。



命が助かる方向に物事を運ぶんです。



一番苦しい時、目を凝らして、耳を傾けて、頭を働かせるてもらえたら…。



そうやって支えてもらえたら助かるんですね。それが「運」だと思うんです。


死にたい人を繋ぎ止めるんじゃなくて、見守っているのを知ってもらうんです。



人間って、損得なしに自分を見守ってくれてる人の言うことは聞きます。



死にたい人の頭の中では

「なぜ死んではいけないのか?」

とゆう疑問がグルグル回ってたりします。



死んじゃいけない納得できる理由なんてありません。



少なくとも本人はそう思ってます。



私は自殺でググる毎日が続いてたんですが、ネットってゆう広い世界を、いくら探しても

「ほら、死んじゃいけない納得できる理由なんか、どこにもないじゃないか」

と、自殺を肯定したかったんですね。



で、その時見た、死んじゃいけない理由。



・死んでも解決しない

死なずに解決できるならやってます。



・自殺の苦しみは永久に続く

前世の苦しみは覚えてないし、来世は想像つきません。



・生きてればいいことある

何を無責任な…とも思うんですが、これについては一言。

それは

「自分の理想と違う人生が、自分にとって不幸だとは決まっていない」

とゆうことです。



違う道を進めば違う景色があります。



少なくとも、それが好きか嫌いか確かめてから死んでも、遅くないですよね。



また

「死にたいは、本当は生きたいなんだ!」

とゆう、勝手な解釈を見かけますが、そうゆう人は、本気で死にたいと思ったことがあるのかなぁ、とゆう気がします。



死にたいは、そのまま死にたいなんですよ。



私の場合

「俺が悲しむから死ぬな!」

と言ってくれた人が居たから、直前で、死の階段を一段下りることができました。



「死にたい側」からコチラ側に戻ってみると、実行する・しないの一線を越えるのは、ハンパなく大変なのに気付かされました。



普通の生活では、この一線を越えるのは不可能だと思います。



それと、限界まで思い詰めたダメージも大きい。

確かに命拾いはしましたが、無気力な病み上がり感が続いてます。



薬も少し増えましたしね。



死にたくなった経緯を考えてみると、一つには、病気に対する

「無理解」

があると思います。



回りから見ると、とにかく分かりにくいらしい。



当事者の中では、病気や症状はすごく単純な話ので

「なぜ回りが理解できないか?」

が、理解できない。

これが次の段階になると、回りに対して、こっちの病気が理解できないことを

「自覚」

して欲しくなります。



自覚してもらえれば、無理解からくる余計なことはされなくなりますから。



ここまでの話、分かりにくいですよね。



いずれにしても、精神疾患は孤独なんです。



これに加えて、私の場合

「自分を追い込む癖」

が、あるんですね。



最初に鬱を発症したのは、転職して直ぐの頃でした。



「早く仕事を覚えて頑張ろう」

なら問題ありませんが、いつの間にか

「早く覚えよう」

「あれ、なかなか頭に入らないなぁ」

「ま、まだ覚えられてない(焦)」

「迷惑かけてるかな?」

「間違いなく迷惑かけてる!」

「こんな自分は役立たずだ!…」

と、誤植を誤変換していく負のスパイラルにはまってしまいました。



今回も、方程式は同じです。

「症状がコントロールできてない」

「仕事に影響が出てきた」

「家族に迷惑かけてる」



「…死のう…」

こんな感じ。



実際、息をしてるだけで、回りに迷惑をかけてると思ったりしてましたから。



あるサイトには

「自殺は健康問題だ」

と、ありました。

確かにそうだと思います。精神面からのアプローチだけでは限界があるかも。

余談ですが、鬱の症状を

「気分的な問題だけ」

と思ってる人の、実に多いこと。

大多数の人は、身体的な症状の多さを理解してないです。



私の場合、割合は変化しますが、身体的な症状が全体の半分を切ることはありません。



で。



幸い…なのかは分かりませんが、とりあえず死んでない。

生き残って良かったとは思ってませんし、自分には価値がないと、割と本気で思ってます。

それに今でも、いつ死んでもいいと思ってます。

生きてるだけで価値があるとか、きれい事を言うつもりもありません。



ただ、迎えた今日に一喜一憂するのはやめてます。



だって疲れますもん。
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